蛇瀬川

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記事作成日:2014/6/28
最終編集日:2021/3/28
蛇瀬(じゃぜ)川は真締川の支流の一つで、馬の背池より南下し、途中で蛇瀬池を経由して字鎌田で真締川に合流している。
写真は南小羽山町の下を流れる蛇瀬川。


現在の流路を地理院地図に重ね描きした画像を示す。は上流端、矢印は下流端を表している。
流路のGeoJSONデータは こちら


人の手の加わらない自然な状態の河川は上流の一部のみで、ほぼすべての流路がコンクリート三面張りないしは練積ブロック積みの水路である。[1]
《 流路の概要 》
以下、蛇瀬池より上流部と下流部に分けて解説する。
【 馬の背堤〜蛇瀬池 】
蛇瀬川の上流端が正確にどの場所であるかは明確ではない。県管理の河川にみられるような上流端の標識柱は存在しない。前出の流路は雨水幹線整備計画平面図の記述を参考にしている。ここでは上流端を馬の背下池の余水吐付近にしている。

馬の背下池を出た水は、送水路を経て蛇瀬川に向かう。ただし送水路付近はまったく接近する経路がなく詳細はよく分かっていない。到達可能な蛇瀬池の最上流端は、中山観音廣福寺の裏より山手に伸びる山道同然の市道門前馬の背線から更に沢を遡行した付近になる。

ここでは馬の背下池に近い別の沢の新堤からの水の一部が藤山方面に向かう用水路の分水井堰により流入する。特に灌漑用水非需要期は用水路側に堰板が置かれすべて蛇瀬川に返される。


馬の背池の排水路付近を除いて、この周辺は両岸が自然なままの河川となっている。

これより下流側の一部には時代の分からない古い石積みが見られる。


下流は市道から離れており藪が酷く完全に追跡することはできていない。この藪を抜ける付近より蛇瀬川は両護岸がブロック積みに変わる。

市道高嶺中山線の交差部分はボックスカルバート構造となっている。
写真は下流側より撮影。


上を横切る市道はかなりの縦断勾配で中山側へ下っている。写真の左側に見えている跨道橋には藤山方面へ馬の背池の水を送る用水路が通っている。市道建設により分断されるので跨道橋が架けられた。水路は尾根伝いに流れており、東側が浅く西の中山側が深い偏った尾根が蛇瀬川と中山川の分水界となっている。跨道橋は目測でも蛇瀬川より少し高い程度なので、中山川と蛇瀬川の分水界が現在の状態に落ち着くにあたって比較的近年に何か地形変動を伴うイベントがあったのではという仮説がある。

蛇瀬池に向かって南下する途中、市道中山線沿いに一ヶ所径1000mm程度のヒューム管となっている場所がある。
蛇瀬川が管渠を通る唯一の地点である。この場所は上流で大雨が降って流木などが引っかかったときの雨水排除に問題を起こすかも知れない。


その数十メートル下流で蛇瀬川が市道中山線の下をくぐるとき、常盤用水路の暗渠出口付近で立体交差している。
後年による現地改変によるものだが、以前はどのようになっていたか明らかではない。
左側が蛇瀬川で右側が常盤用水路


その後蛇瀬川は蛇瀬池の入り江の一つに向かう。蛇瀬池の水位が低いときは流入経路が堆積した土砂に刻まれているのが見えるが、水位が高いときは池の水面に隠される。蛇瀬池への注ぎ口付近は道がなく接近困難である。
写真は蛇瀬池の低水位時に撮影。


昭和49年度版の国土地理院航空映像では小羽山ニュータウンの造成中で、蛇瀬川に刻まれた深い谷地に蛇瀬橋を架けるためからか蛇瀬池の水位が著しく下がっている。このため溜め池以前の大まかな流路を推測できる。


現在の北小羽山町側から池に突き出た半島部があり、蛇瀬川はここを避けて曲がっている。現在でも蛇瀬池の水位が低下したとき半島の最高地点が島となって現れる。
【 蛇瀬池〜真締川合流部 】
蛇瀬池の水は、蛇瀬川の河川維持分も含めて本土手にある樋門より取り出される。蛇瀬池が満水時に大雨などで流入量が増大したときのために、本土手から東側へ離れた場所に余水吐が造られている。余水吐には流木などが流れ込むのを防ぐ網を固定する石柱があるが、過去に発生した大水で折れて一部は下流まで流れている。

余水吐の少し下流側に小羽山造成前から存在していた古道が石橋で横切っている。この石橋は蛇瀬池築堤時代のものである。


余水吐から石橋までは流路がコンクリートで固められているが、それより下流では大岩が非常に多い荒手となっている。この場所は蛇瀬池築堤より前からの地形を遺している。
流路にあるいくつかの岩は、流水の接する部分が平面的である。流速を高めるために削られたようにも見えるが、恐らくは自然由来であろう。


流路の底は殆ど手が加わっておらず、自然の大岩が露出している。一部の岩は人が容易に越えられないほど大きい。余剰水は大岩の間を落下する過程で減勢される。本土手から離した岩の多い場所へ余剰水を誘導し、盛土で造られ脆弱な本土手を護る設計思想と言える。同種の構造が常盤池や女夫岩池の余水吐にもみられる。

荒手の末端部の真上を市道小羽山中央線が蛇瀬橋で通過している。この辺りは小羽山団地の造成と道路建設によってかなり地形が改変されている。
流路はコンクリートの三面張り水路に変わり、大岩が積み重なっている。


この大岩はコンクリート水路施工後に底面の洗掘防止として人為的に置かれたものかも知れない。豪雨など気象が激甚化している近年でも余水吐を越えて大水が流れることは滅多に起こらない。
老朽化した余水吐のコンクリート下に池の水が染み出て流れる様子は観測されている

コンクリート三面張り水路は数段の落差をこなしてその先で蛇瀬池の出水口に出会う。
写真は大雨が降った後の放流状況。


蛇瀬池の樋門は現在操作されておらず、常に低い位置に保たれている。満水位になる前に樋門より流れ出るので相当な雨のときでも樋門から排出される。したがって地図の河川表記とは異なり、蛇瀬池より下流では池の水は殆どこの出水口から放出される。
出水口からは比較的縦断勾配のあるコンクリート水路を流れる。途中で段差や堰板を設置する場所があり、隣接する田に用水を引き込めるようになっている。

南小羽山直下を流れる蛇瀬川は流路の変更を行っていない。現代なら河川改修して直線的水路にするところを、蛇行していた流路に合わせて護岸を築いている。


このためやや離れて蛇行部分をズーム撮影すれば、圧縮効果が現れて極度にうねった蛇瀬川を撮影できる。

小羽山団地の造成前は、蛇瀬川より西側にも同等程度の田があった。造成時に削って発生した土を蛇瀬川の手前まで押し広げて居住区を確保している。造成前の谷地の幅は現在よりも更に広かった。しかし蛇瀬川の水路幅は現在ある谷地の幅と合わせても著しく小さく、大雨のときでもこの水路幅で排水確保できている。かつてもっと水量のある川だったものが、遙か昔の土砂崩れなどのイベントで分水界が変わって流量が激減したからではないかという仮説を生じたもう一つの理由である。

南小羽山入口付近には開発時に造られた沈澱池があり、そこから若干の水が流入してくる。この沈澱池の堰堤は他にはない特徴的な形をしている。


沈澱池は小羽山地域の雨水のみを集めるため、雨天時を除いて流入量は僅かである。その後蛇瀬川は市道維新山西山線の下をくぐる。河川整備と同時期に整備された市道真締川南小羽山線に沿って流下し、その途中でまこも池よりいか土を経由して流下してくる水系を取り込む。


これより蛇瀬川の水路幅は、沈澱池手前よりも倍近くに広がる。両岸が練積ブロックの布積型で、経年変化で陥没したり崩れたりしている場所がある。

市道が大きくカーブする内側には更に山側へ深く切れ込む蛇行の痕跡が窺える。地図でも三日月状の池として表記されており、小羽山団地造成時に現在の市道を建設するにあたって流路を修正したようである。


沈澱池より下流側に井手は2ヶ所確認されている。蛇行地点を通過後の直線部分と屈曲点にあり、恐らく灌漑用に現在でも使われている。


特に市道が直角に折れる地点にある井手から導かれる用水は、一部が尾崎用水路に向かっているかも知れない。

この折れ点より蛇瀬川は一本西側にある市道まかよ小串線に沿って真締川に注いでいる。
写真は御手洗橋の下から上流側を撮影。


潮止めの役割も果たす鎌田堰が御手洗橋より200m程度下流にあるので、蛇瀬川を海水が遡行することは現在では起こらない。
《 時代に伴う変遷 》
【 古代 】
人々の暮らしが始まるより遙か前、特に蛇瀬池築堤以前の蛇瀬川の経路は、上流域において大きな変動があったかも知れない。これは馬の背から流下する過程で中山川の上流端を西側下に見ながら山の斜面を平行に進む不自然な流路に依る。この原因は解析を要する。

刈川付近の顕著な屈曲は、川筋が定まった初期はもっと大きかった。刈川墓地の下が大きく抉れているのは、水流で削られきれなかった堅い岩の存在が示唆される。下流側にある北側へ張り出した三日月状の田は、水流の反転に依るものだろう。一連の様子は、昭和30年代後半の地理院地図航空映像からも明らかである。


真締川合流点付近でも直角に曲がる不自然な流路がみられる。合流点は現在で潮が遡行する上限の鎌田堰から相対高度で1m以内の地点なので、沖田耕地整理時代より前は合流点が不定だった可能性がある。縄文時代は現在より海水面が4m程度高かったので、その時代まで遡れば真締川に合流しない独立水系だったと考えられる。
【 灌漑時代 】
蛇瀬池の築堤後は鵜ノ島開作の主要な給水元となった河川で、下流域では概ね蛇瀬川が上宇部村と中宇部村の村境になっていた。現在でも住居表示エリア外では大字上宇部と大字中宇部の境界である。

初期において苅川(かりかわ)と呼ばれていた。防長風土注進案には宇部本川の枝川として以下のように記述されている。
但上は蛇瀬堤之下より拾壹町程巽へ流れ、流末川幅四尺五寸
苅川という名称は現在では使われないが、下流の屈曲箇所付近に川を挟んだ両岸に刈川およびかり川という小字名が存在する。

現在の蛇瀬川という呼称は、福原時代に椋梨権左衛門俊平が築堤した蛇瀬池の小字名に依る。ただし築堤以前から「じゃで田」と呼ばれていたことから、蛇瀬の元となった地名は溜め池より前から存在していたことになる。現在では真締川の流入口までが蛇瀬川であるが、歴史的には現在の真締川や新川相当にあたる部分も蛇瀬川と呼んでいた時期があった。
宇部百景絵はがきのモノクロ写真では緑橋より上流を写した写真キャプションに蛇瀬川と書かれている
【 近代以降 】
昭和40年代後半に始まった小羽山団地造成に合わせて蛇瀬川の護岸整備が始まっている。特に市道小羽山中央線の蛇瀬橋が架かる近辺は盛土や灌漑用水取り出し管、砂止めの堰堤などで大きく改変されている。

刈川で流れが大きく屈曲している地点は、小羽山団地造成に伴う工事道路建設に合わせて流路も整備されたようである。この屈曲部の最も深い場所、刈川墓地の下にあたる場所に初期の石積みなどがあるかも知れない。
三日月状に遺る旧流路付近は沼地で接近が不可能なため調査されていない

蛇瀬池の取り出し口より真締川合流地点までは蛇瀬川雨水幹線として指定され、まこも池から流入するまこも雨水幹線と共に宇部市公共下水道事業の計画路線となっている。ただし施工時期などは未定である。
蛇瀬川の中流域にダムを築いたらどのような状況になるかをシミュレートした記事。
単独記事: ダム建設シミュレーション
出典および編集追記:

1.「宇部市|河川の種類」には蛇瀬川の記載がないため、渡内川と同様な指定水路と思われる。

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